「――落とそうかと、思うんです」
 
 
彼の声が沈黙を破った。

7月も終わりに近づくが、夏の気配は遠い。今年の梅雨明けは例年より遅れていた。蝉の声もしない夏。しかし、部屋の中の澱んだ空気の原因はそれだけでは無かった。
 
 
「何を落とすつもりだ」

「計算機システムの単位です」

「落としてどうする」

「電磁理論?をやり遂げます」
 
 
再び沈黙。次の言葉は出てこない。私は、彼にかける言葉を探していた。
 
 
「それで大丈夫なのか。捨てることは簡単だが―」

「わかっています。でも。電磁だけは無事に通したいんです」
 
 
本当なのだろう。
 
 
「今の時点で絶望的な計算機システムに構っている暇は無いんです」
 
 
その通りだ。彼が計算機システムの講義内容に関して絶望的に少ない知識しか持ち合わせていないことは私も知っていた。しかしながら、電磁理論に関しての彼もそう大差なく絶望的だった。
 
 
「ここ一番でそういう逃げ方をする奴は絶対に失敗する。見てきたはずだ」
 
「精神論ですか?」

「そういう事を言っているんじゃない。お前もわかっているんだろう?結局全てを落とすことになるぞ」

「そうしないために、落とすものを決めるんです」

「現実から目を背けるな。そうやって逃げてばかりいると、いつか行き詰る」

「あんたに何がわかるって言うんですか」

彼はわかっているはずだった。俺にわかることは彼にもわかるのだ。
何かを捨てなければ何かを救えない、そんな状況に落ち込む人間は、結局何一つとして救えない。お互いにわかっていた。口に出すのが怖いだけだ。負けを、認めたくないだけだ。
 
 
 
蝉が、鳴き始めた。
 
 
 
「やりますよ」

「もっと早くからやればよかった」

「電磁気は落としません。人に時間を割かせてまで教えてもらいました。無駄にはできません」

「4月の時点では、全部の単位を取ることも可能だった」
 
「僕は、やります」

「どうして落とさないといけないんだ」
 
 
俺は、何を言っているんだろう。わかっていた。俺にわかることは彼にもわかる。
そして、逆も。
目を背けているのは俺なんじゃないか。全ての単位を取ることなんて――
 
 
「僕は勉強に戻ります」
 
「なぁ」

「電磁理論の単位だけは落としません」
 
 
彼は立ち上がった。俺は。
 
 
「待て」

「もう行きます」

「やり遂げるんだ。お前は、いや俺たちはもう迷惑をかけすぎた。電磁理論に関して『不可』は許されない。悔いの残らぬよう、今からでも全力を尽くすんだ。これが終われば夏コミ。世話になった人間へ返すべきは同人誌と『可』の成績表。どちらが欠けても誠意は見えない」

俺も、立ち上がっていた。

「行きましょうか」

「ああ、始めよう」
 
 
 
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次回、第27話「留年の危機」

お楽しみに。

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